(毎年8月3日〜8日運行)
立 佞 武 多 (tati-neputa) |
約一世紀前の明治中期から大正初期にかけて高さ約10間(約18m)の巨大な 『ねぷた』が街を練り歩いたと言われております。その勇壮な姿は、近隣町村からも見えたと伝えられています。 しかし、大正に入り電気(電線)の普及とともに低いねぷた(5m位)へと変化、巨大ねぷたは姿を消しました。 1996年、残された1枚の写真を元に、巨大ねぷたが復元され、1998年新しい祭り『五所川原 立佞武多(たちねぷた) 』がスタートしました。 |
2016年1月 『立佞武多の館』に展示されていた三体の立佞武多 |
平成25年制作 |
陰陽 梵珠北斗星 |
陰陽 梵珠北斗星 |
平成24年制作 |
国姓爺合戦 和籐内 |
国姓爺合戦 和籐内 |
国姓爺合戦 和籐内 |
平成24年制作 |
津軽十三港伝説 |
津軽十三港伝説 |
津軽十三港伝説 |
津軽十三港伝説 |
2013年11月 『立佞武多の館』に展示されていた三体とミニ立佞武多 |
平成23年制作 |
義経伝説 龍馬渡海 アップ |
平成25年制作 |
陰陽 梵珠北斗星 アップ |
平成24年制作 |
鹿嶋大明神と地震鯰 アップ |
ミニ立佞武多 |
ミニ立佞武多 |
ミニ立佞武多 |
ミニ立佞武多 |
2010年8月8日 運行された 『ねぷた』こ たち |
決戦川中島 |
源頼光 |
武松と猛虎 |
武田信玄 |
妖怪百物語 |
諸葛亮孔明 |
閻魔大王 |
入雲竜 |
本能寺の変 |
平成22年 |
2009年8月7日 運行された 『ねぷた』こ たち |
機関車トーマス |
錦の旗を奪う |
剣聖武蔵 |
須佐之男命八俣大蛇を |
北方守護神多門天 |
天の岩戸 |
風神雷神 |
竜虎の闘い |
力行 |
独眼流政宗 |
弁慶の |
前田慶次郎 |
平成19年 |
平成20年 |
平成21年 |
2008年8月8日 運行された 『ねぷた』こ たち |
山姥と怪童丸 |
西遊記 |
天下布武 |
文覚祈誓 |
狒々退治 |
趙飛厳顔 |
ヤッターマン |
一寸法師 |
鬼若丸 |
森の守護神 |
水軍大将 |
暫 |
暫(日中) |
平成18年 |
平成19年 |
平成20年 |
2007年8月 『立佞武多の館』に展示されていた三体 |
平成17年制作 |
アップ壱 |
平成18年制作 |
アップ壱 |
平成19年制作 |
アップ壱 |
2007年8月 『立佞武多の館』で解体されていた一体 |
カ゛ンタ゛ム解体風景1 |
カ゛ンタ゛ム解体風景2 |
カ゛ンタ゛ム解体遠景1 |
2006年8月 『立佞武多の館』に展示されていた二体 |
平成16年制作 |
アップ壱 |
アップ弐 |
平成17年制作 |
アップ壱 |
裏の鬼 |
2003年8月6日 運行された 『ねぷた』こ たち |
人 形 ね ぶ た |
木鹿王と趙雲 |
武蔵対胤舜 |
草薙の剣 |
千里行 関羽 |
立 佞 武 多 |
羅 生 門 |
軍舎利神 |
五穀豊饒 |
白 神 |
北の守護神 |
時代を反映させた制作意図、そこにこめられた祈り |
五穀豊饒(H15制作) |
白 神(H13制作) |
北の守護神(H14制作 |
主役は『ねぶた』だけでない |
情っぱりあすなろ大太鼓 |
若げどもの躍り |
引立てる踊り |
ねぷた囃し |
『ねぷた祭り』の由来1 |
七夕にまつわる民俗行事は数多いが、そのほとんどは、穢(けが)れを流してやるための禊(みそぎ)を行う日となっている。水浴びをし、女の髪を洗い、衣類をすすぎ、また牛馬にも水を浴びせ、井戸をさらえ、家具を洗うなどの行事は、みな穢れを流しやるという禊からきている。また、七夕の笹を川や海ヘ流し、天の川へとどけば願いが叶うと昔から信じられているのも、穢れを物に託して送る習慣から生まれたものと思われる。 私の子供の頃までは、『ねぷた祭り』も七日目(なぬかび)に、人形『ねぷた』等を川に流したもので、やはり穢れを流す意味があった。 また、『ねぷた祭り』と酷似している祭りに「ねむり流し」とか、「ねぷり流し」というのがあるが、あきらかに眠り〈睡魔〉の意味で、『ねぷた』も〈睡魔〉のことであろう。〈睡魔〉という穢れを水に流して、天の川へ届けと願った祭り事がもとで、今の形に変化して来ていのである。 |
『ねぷた祭り』の由来2 |
今から一千年ほど前、蝦夷(東北地方)の人が天皇に従わず反乱していた。そこで桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍として蝦夷地に送った。 しかし、蝦夷の中で現青森県の東日流(つがる)地方や耕田の嶽(八甲田山)にこもる蝦夷は、神出鬼没で中々捉えることが出来ず、困りきっていた。 そのとき田村麻呂は、蝦夷を誘いだすため竹と木を組ませて紙を貼り、大燈籠を作り、夜になると魚油の灯火を点し、笛、太鼓、鉦、そしてささらを賑やかに鳴らし「ねぷた流れろ、まめの葉にとっちばれ、エイエイヤァ」と囃しさせた。 すると蝦夷が何事かとぞろぞろと出て来た。ここぞとばかり田村麻呂軍が攻めたて、ついに平定する事が出来た。『ねぷた祭り』は、この故事から発祥したともいわれている。 また、青森県内には、田村麻呂にゆかりのある神社が19社もあり、戦わずにして蝦夷を征した田村麻呂を神に崇める程に崇拝されたものと考えられる。 ちなみに、『青森ねぶた祭り』のその年の最優秀の『ねぶた』に対して贈られた賞を『田村麿賞』といった。(現在は『ねぶた大賞』と改称) |
現在の形の「アイデア」は? |
現在の形の原形を考えたのは、戦国時代末期に津軽地方を統一した津軽為信公の重心服部長門守康成だったといわれている。 文禄二年(1593)、京都に上っていた北国育ちの為信は、京都の夏の暑さにまいり、暑気を吹き飛ばす趣向を服部に命じた。服部は国許の領民が、この時期楽しみで行っている「ねむり流し」で、燈籠を川や海に流す事をヒントにして京都で行ったことによる。 その内容は、大燈籠(二間四方)を作り、夜に灯を入れ一層引き立て、その大灯籠のまわりで笛、太鼓で囃し、京都の津軽屋敷の廻りを練り歩かせた。そのとき家来たちは、興に乗り自己流に大燈籠の廻りを跳ねまわった。 京都の町の人々は、あっけにとられ大燈籠を見物していた。のちに、この時の大燈籠の成功が、津軽に伝えられ『ねぷた祭り』として城下で盛んになって行ったと言われています。 |
『ねぷ(ぶ)た祭り』はどこで行っていますか? |
?青森市「青森ねぶた祭り」(8月2〜7日まで):7日は、昼間運行、夜は花火と海上運行。 人形ねぶた、跳人(はねと)という踊り手が1台に数百人付く。掛声「ラッセラー、ラッセラー」。 ?弘前市「弘前ねぷた祭り」(8月1〜7日まで):7日は、昼間運行、弘前は扇形に武者絵書いた物が主流、幻想的雰囲気。掛声「ヤーヤドー、ヤーヤドー」。 ?五所川原市「五所川原立佞武多」(8月3〜8日まで):20m程度の高さがある立佞武多。掛声「ヤッテマレ、ヤッテマレ」。 ?有名なのは上記の三市ですが、規模はともかく、津軽地方の各地で実施されている。 ?群馬県尾島町「尾島ねぷた祭り」(8月14〜15日):弘前と同様の扇ねぷた。江戸時代に同地に津軽藩の飛領地があり、それが縁で昭和61年から開催。 |